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Discussion

芸術家はなぜ作品をつくることができるのか?

質疑応答

 

田島: いろいろ話したいことあるんですけど、そろそろ寒くもなってきましたんで、底冷えもしてきましたし、皆さんの中でご質問とかあれば・・・。

 

質問者A: 質問というより感想・・・お三方、しがみついていうという感じで、とっても共感しました。水野さんはお母さまの絵もとっても色がキレイで、NHKの(番組の)「日曜美術館」を見たときに、一緒にもっていった母親の写真を見たんですけど、とってもきれいな感じで。あと、思ったのは、リアリズムなんだけれども、3Dみたいではなく、そのものの持っている全てを描きたがっている感じがしたんですけど。田島さんの場合は電車に乗るのが苦手とか、一番もと・・・絵を描きたいか、芸術作品を作りたいか、・・・その原点になる、一番基になるものが必要なんだなと思いました。

田島: 当たり前のことを、当たり前じゃないように捉えたいという衝動はありますよね。普段見てたり、人が言ったりすることが、違うんじゃないか、自分なりの納得の仕方というのはそういうことではない・・・という感じはありますね。

質問者B 田島さんは理系の出身で、理系という論理的な思考と、美術という感性の世界がどうシンクロして作品を生み出すか、というところとお聞きしたいんですけど。

田島: (科学と芸術を)分けて考えてないんですよ。私は学者になりたかったんですけど、途中で失望して大学院に進むのはやめて就職しました。そのあと美術を本格的に学んだんですけど・・・科学は客観的にものを見ます。1グラムとか1メートルとか。そういう見方をします。今日話した距離というのは1メートルとか2メートルとかの距離じゃなくて自分の感覚ですね。自分が納得できる主観的なものの見方です。その、(客観と主観の)ものの見方が一番ひしめいているというか、この分野で。特に脳科学の分野ではそうですし。ものを見るという視覚の実験というのも盛んに行われていて、僕たちが主観的にものを見るということは科学で説明できないんですよ。科学で得られた成果と主観として得られた成果を比べながら、いつも考えています。・・・答えになっているかどうか・・・どっちもどっち・・・同じ比重を持ってます。

質問者C: お三方は選挙には行かれますか?* (*このトークイベントが行われたのは2017年9月30日であり、その2日前に衆議院が解散し、10月22日に衆議院議員選挙が行われることが決まっていた。ちなみにその選挙結果は安倍首相率いる自民党が圧勝し、立憲民主党が野党第1党となった。)

水野: 行くと思います。

田島: 行きます。

高島: もちろん。

質問者C: ほっとしました。というのは、アートって自己表現ですよね。日本の教育って右に習えというか、出る杭は打たれるというかそれがそのまま成長して、個性的でないほうがラクな感じの社会になっているような気がするので、本当に真実を見つけようとか、社会を変えたい、でも自分一人が選挙に行ったところで・・・という気持ちになりがちなんです。芸術家の皆さんはあまり現実的なところに居ないのかなと、勝手に思ってしまいましたから。

田島 今この社会に息苦しさを感じてますし、世界中にはいろんな矛盾があって、それを話し出すと大変なことになるんですけど・・・我々芸術家も一個の人間であって、芸術は芸術でやるんですが・・・別の・・・例えば税金払うとか・・・。選挙に行って、選挙の一票というのも自分の表現だし。

質問者C: 大変素敵な言葉です。ありがとうございます。

質問者D: 僕は刺繍の仕事をしながらご飯をいただいてまして、花とか動物とかいろんな刺繍をするんですが、糸の色が絶対的に少なくて、つまり僕の理想とする糸の色が選択できないという制約の中でやっているんですね。もう少し刺繍をしたら本物に近づくかなっていう駆け引きを探りながら作っているですけど、刺すってことは生地にダメージを与えることでもあるので、ある程度の加減は必要なんですけど・・・そうやって作っていると、どこを着地点というか完成をどこにもっていくかというところでいつも迷ってまして、お三方が、何か作品を作られたときに、その作品の完成とするラインというのをどういうふうに決めてらっしゃるのかなということを三人に伺いたいです。ご自分が満足される線引きを、何を基準にしてらしゃるのかなと。

水野: 二つあります。抽象的な判断なんですけど毎日自分の絵を見るわけですけど、そうか(完成しているか)そうじゃないか(完成していないか)という判断ですよね。他の人がみて未完成に見えたとしても、完成・・・もう出来てるんじゃないかと思えたとしても、自分の感覚で(完成と思えるよう)でないと何か(問題が)あるんですね。あと現実的な問題で展覧会来ちゃうっていうのがあって(笑)終わりにしなくちゃいけないというリミットがあるのが現実問題としてあるんで・・・

質問者D: ちょっと安心しました。

水野: その時だけしか出ないパワーというのもあるんで、マイナス面だけじゃないですね。リミットがあるっていうのは。

田島: 私は例えば、卵の皮はエンドレスなわけで、あまり考えないですね。完成とか終わりとか。展示するときはどうしてもこれ以上できないというある地点が見えてきて・・・自分でもわかんないですね。そうですね。できれば完成点がないほうがいいですね。完成しちゃうと良くなかったなと自分の心の中で思うのかもしれない。ここまでだったか、俺は、という感じ。

高島: ある程度ここまでやりたいということはあります。大体ですがありますね。水野さんがいくら締め切りがあるって言っても、出せる(=発表できる)場合と出せない(=発表できない)場合がある。僕も同様ですが、・・・結構僕は、お二人に比べると完成の概念が個々に相対的な所があって、何かっていうと、先ほどみてもらった(僕の作品において)、これは完成なの?と(見た人から言われると)いうわけですね。その制作の過程、その時間、そのときどきの過程で生まれたものというのは、後戻りできない一回性の判断と行為の結果です。ですから「あっ」、これでいいなと思ったときに、それは完成していると考えています。しかし、一週間たって、画面が動く間は筆を入れたりとか、・・・画面が動かなくなるまでやって・・・、最後は「その時」の年月日を記して、それで出します。そのあとまた・・・ああもっとこれは出来るなというときには、やる場も機会もないし、そのときは、既に作品は僕を離れていますから、「その時」の完成ということで作品はそのまま残ってしまう。僕にとって作品との時間も含めた関係そのものが、作品の重要な要素にもなっています。僕が生きているのと同じように作品も生きているという感覚を大切にしていきたいと思っています。そんなところですね。

質問者D:  ありがとうございます。

 

田島: 皆様ありがとうございました。アーティストはそれぞれ自分の課題に取り組んでいますが、それについて語ると、自分が気づくこともあります。アーティストは語ることをやめてはいけないと思います。

​終)

                        

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