Discussion

芸術家はなぜ作品をつくることができるのか?

距離について(続き)

The Volcano - 大地と距離について/浅間山 -

水野: 僕が浅間を目の前にしたときに、浅間だけじゃないんですけど、東京に行ったときに登ったことのないスカイツリーがあったりして、すごい・・・一番高いですよね。何かよくわかんない感じになったんですよね。凄く高いっていわれてるんだけども、大きいのもわかってるんですけど、良く見ようとすると、ひょっと登れるような気もするし、或る時には凄くおっきく感じたりとか結構わかんなかったんですよね。で、そのまあ、(僕の作品は)一見写真みたいだと言われることがあったりするんですけど、そういう絵を描いて、結果的にこういう絵になってるんですけど、その場に行くってことを大事にしたいなと思ってて、なんでかっていうと、写真を使って描くってことに否定的な意見を持っているわけじゃなくて、全然使っていいと思ってるんですよ。例えば定規とか使って、まっすぐな線を引くじゃないですか。定規を使わないでやれっていうことではなくて、写真も定規も使い方によっては使ったほうがいいんじゃないかと思うんですよ。でも僕が今生きてて、例えば今話をしてますがこの空気感とか、この距離の感じって、決まっているようでよくわかんなかったりすると思うんですよ。そういう・・・なんていうかな・・・意外とこの世界が、決まった枠組みの中にあるように思えて、実はそれは凄くあいまいなものなんじゃないかなと僕は感じていて、それを、僕自身もあいまいで、向こうもあいまいなところで、どうやって点を結んでいったらいいのかなと、そのへんに興味があって、そういうところでなにか・・・高島さんのいっている確認っていうことと同じかどうかわかんないんですけど・・・僕が生きてて視て、感じている何かを確認していきたいのかも知れないし・・・

 

田島: このタイトル「The Volcano ―大地と距離について」というんですけど・・・ま、距離・・・あのう・・・高島さんが壁との距離を測りながら・・・というのがあるじゃないですか。壁くらいなら距離測れますけど、そこで、とてつもない大きさを持った何か、というものに挑もうとするわけで、そこの距離感を・・・なんていうか、距離感を測れそうもないものに挑んだ、という感じですか?

水野: そうなんですけど、でも或る程度まとめちゃったなという感じは無きにしもあらずなんですけど。

田島: 力ずくでまとめた感じ?

水野: ん・・・まあそういうところも、今見るとあるという感じはするんですけど。なんかそういう、揺さぶられる感じというのも本当だと思うんですけどね。なんか感覚で感じるとか見るってそんなに決まった話じゃないし・・・それ自体が画面にあいまいさとか含まれたらいいなという思いはあるんですけど。

田島: 非常に大きい絵で、一部分だけ見ていると全体がつかめない感じがあるし。ちょっと・・・距離つかむのに、困った感じがありましたね。

水野: そうですよね。困ったんです。

田島: 困ったんですか?

水野: ええ・・・。

田島: なるほど。距離感が解決しないまま・・・解決しなさ加減・・・揺れ動くまま・・・揺れ動きを描いた?

水野: 結果的にそれが含まれたらいいな、っていう感じですかね。

高島: それっていうのは記憶の中に残るんですか?

水野: 記憶も含まれるかもしれない。ただ、現場で見てても分かりづらい。

高島: 今話されたのは、わかるのね。それってね、身体で感じることなんですよ。感覚とか・・・視覚もそうなんですど・・・感覚じゃなくて、もっと身体・・・からだ全体でね、感じるなんかあれなんですね。もしそれを思い出そうと思うと、身体的な感じとしてやはり、動くというか。僕にとっては・・・

田島: 背中で見る・・・

高島: 背中で見る・・・っていうことをね、今話し聴きながら思ったですが。

田島: 見ることの話しについては、この先の水野さんの探求で、転回してくる話ですから、先に進みましょう。梅についてですね。

梅を描く (水野暁)

イサマムラ 水野暁会場 展示風景

水野: 「イサマムラ」という旧・伊参(いさま)小学校で展示しているんですが、この梅の作品ですね。梅とあと点滴です。昨日か一昨日、会場に行ってちょっと見てる人の感想きいたら「なんか気持ち悪い」っていう人がいたんですけど・・・まあそれも正直な意見かなと思いながら・・・。

(動画 を見せる。NHK「日曜美術館」の放送の一部)

(ナレーション)「大きなキャンバスを運ぶ男。水野暁は、晴れた日にはアトリエのとなりの梅園へ。描いているのは、もちろん梅。

どんどん変化する梅に翻弄されながら何年もかけて描いてきました。

時代に逆行するような、地道な現場主義を水野は貫きます。」

 

(水野)「結構カメラとか、3Dとか、バーチャルリアリティーとか、いろいろ発達してきて凄いじゃないですか、表現も。それでも何でこの原始的な方法で描くのか、っていうところが意外と大事なところなんですね。」

水野: 今の状態がこの状態で、実はビエンナーレ終わったら手を加えたいなと思っていて、ということを考えればまだ途中の作品を出しちゃってるっていう感じなんですけど。あのう・・・こう見ながら描いてると、枝の隙間とかどのくらいの距離にあってどこにどう枝があって、というのが全然わかんなくなっちゃうんですね。描いててもわかんないし。それが例えば一枚の写真からトレースするとしますよね、そうすると意外と人って冷静にできるんじゃないかなと思うんですけど。作業として。ただそこと、見ながらやるっていう違いでなんかやっぱりわかんなくなるというか、その距離感とか枝がどこにあるかとか、あと大きいキャンバスなんでこっち(キャンバスの左側)描いてる時と、こっち(キャンバスの右側)描いてる時で、位置がずれますよね自分の位置とか。それも意外とその位置がずれちゃうとか。間違える・・・間違えるんだけどまたそれを確認しながら形成をしていこうとする、その意味あいが僕の中であるような気がしてて。狙いとして、写真のような絵を描きたいっていうわけでもなくて、自分にとってこの梅園の梅の木がどんななのかということを探りたいっていうことなんですね。

 これもちょっとだけ、実が混ざってきてますけど、(描いているうちに)時期も変わるんで、葉っぱが生えたり、実が成ったり花があったり枯れ木になったりいろいろ変わってきますけど、それを追いかけているような感じですかね。これもちょっとだけ、実が混ざってきてますけど、(描いているうちに)時期も変わるんで、葉っぱが生えたり、実が成ったり花があったり枯れ木になったりいろいろ変わってきますけど、それを追いかけているような感じですかね。

水野: これは梅の花と梅の実をアルコール漬けにした梅酒・・・ですかね。

水野: それが点滴によって垂れてきて染みが出来てくるんですよね。これは僕はスペインに行ってたんで向こうにいたときに向こうのものばっかり描いてたので、凄く日本が恋しくなっちゃって、日本のもの描きたいなという衝動にすごく駆られたんですね。で、何を描こうかなと思って桜とかいろいろ定番のやつが頭に浮かんだんですけど、やはり思い出されたのが自分の幼少期の春の時に梅の香りがかおってきて、そういう情景が自分の心に浮かんできて、香りみたいなものも作品につなげられたらいいなという思いからこの液体をつくるきっかけだったんですね。いかんせん、あまり香ってくれてないっていう、失敗でもあるんですけど・・・

水野:ま、これは写真の作品。

母を描く (水野暁)

母を描く (水野暁)

(動画 NHK日曜美術館)

 

(ナレーション)その水野が新たに始めたのが、年老いた母を描くことです。

(母:ゆりこ)「どのような絵を描くのか、はっきりと聞いてないんですけど、でも画家として描くんだなと・・・」

 

(ナレーション)パーキンソン病のゆりこさんの体は、ときおり制御不能になります。ゆれ動く母を見つめること。今、水野にとって、一番大事なことです。

(水野)「描いてて動いたときに、・・・ 気になったことを描いた  いままで一番わからない。ただそういうのが必要な気がするんですね。自分がわかんないから・・・」

(ナレーション)こころ震えるものを残したい。その思いが、見つめる眼差しとなり、人は、絵を生み出します。

 この状態が、二週間くらい前に撮ったもので・・・。自分でもどうなっていくか、あんまり着地点は決めてないんですけど。こんな状態になってます。母は映像でも言っているとおり病気をしているので、ゆらいだり、止まって動けなくなっちゃったり、状況が変わってくるので、それを自分なりの目線で、何か残していけたらいいかなと思っているんですね。油絵だけだと完成を目指したくなっちゃうんです。人間の性(さが)みたいなものが出てきちゃって。まとめようとしがちだと思うんですよ。僕もやっぱり油絵って構えちゃうところがあって、完成を見たくなっちゃう、想像したくなっちゃうんで、それを自分でもゆさぶりをかけたりとか、新鮮な状態を保つためにドローイングを日々というかやってるんですね。

どこ描いたか自分でもわかんなくなちゃって・・・口とかかな、

これは寝転がって顔が動いてたりとかですね。

田島: あのう、絵を描く場合に、モデルには動いて欲しくないじゃないですか。

水野: そうですね。

田島: モデルはポーズをとるという。ポーズは静止するという意味じゃないですか。水野さんは、わざわざ一定のポーズをとらない人をモデルに選んでいる。問題は、なんでそんなことするのかということです。なんでそんな難しいことをやるんですか?

水野: そうですね。いくつか要因があって、少し前から生の目で観察すると、スペインでも人物を結構ドローイングしてたんですけど、向こうのモデルさんって結構自由で、休みの時間じゃないのに動いちゃうんですよね。「あ、動いている」と思ってそれも描いているうちに、「やっぱり人間って動くんだな」と。まあ当たり前なんですけど。人を描くということは、どういうことかということかというと、そうやって動いたり、何ていうんですかね・・・生きてるものですよね。生きてるものをどう捉えるか、というのはやっぱり動きとかも関係してくるんだろうな、ということが一つ。それから、僕もこの年齢になってきて、母がああいう状態になってきて、今までは照れもあって、なかなか母親と向き合える状態ではなかったかなと思ったりするんですけど、自分の制作と、年齢と、母の状態というのが(重なって)、今描きとめたいという気持ちが湧いてきたというのが、もう一つですね。

田島: 動くっていうのは、絵を描く上ではマイナスの要素だと思うんですよ。だったら動かない時のモデルを描けばいいし、動かない時のお母さんを描けばいいと思うんですね。でもその動きっていうものにこだわって、それを描こうとするじゃないですか。それって、何か別の衝動があるような気がするんですけど。絵を仕上げるというのとは別の・・・。

水野: そう・・・ですね。断片的な・・・これも断片になっちゃうかわかんないんですけど、なるべくこう、いろんな角度から、母を・・・この場合は・・・見てきたいなと思っていて、そうするとじゃあ自分の都合のいい動かないときだけ描くっていうのは、なんか違うんじゃないかなっていう気がしてて、動いちゃうときもあるし、調子がいいときと悪いときとあって、それも今の状態なんですけどね、そういうことも自分がどう・・・描き残せるのかなっていう感じがしてて・・・

 

田島: お母さんを描こうと思ったら、動いてるお母さんが、本当のお母さんだと?

水野: いや、動いてるときもあるし止まっているときもあるし。状態がいいときもあるし、悪いときもある。いろんな状態ですよね。いろんな状態が混ざってくれるのがいいような気がするというか。

田島: それを全部描いちゃうと。

水野: ええ、全部描けるかどうかわかんないですけど(笑)

高島: 生きているってそういうことだよね。生きていることはそういうことだから、生きている、お母さんを描きたい・・・。

水野: そうですね。

高島: セザンヌは逆にね、奥さんを座らせて、ちょっとでも動くと「りんごは動かない、なぜおまえは動くんだ」と問い詰めたという話を聞きますけど。セザンヌの場合は奥さんの姿かたちが画面にとってのひとつの・・・なんというか・・・手段なんですね。(奥さんを)利用して絵画を描いている。けれども今の話を聞いてると、水野さん、生きているお母さんを描く。生きているということですね。

水野: そうですね。僕もよくリアリズムとか写実の作家っていわれるんですけどリアルの意味ってどうかって考えたら、なんか表面的にリアルに描いてあるっていうのがリアルって言われがちだと思うんですけど、そうでもなくて、僕は・・・なんかこう・・・よくわかないですけどねこの現実が。僕はそういうものを感じたものを出していくということが今の僕にとっては大事な気がする。

田島: セザンヌの話が出たんですけど、私の解釈ですけど、セザンヌは、もののありのままを描くんじゃなくて、自分の見る、自分の状態のありのままを描いた人だ(と私は)思っていて、彼の絵を見ると筆致が・・・自分のひとつひとつの見る単位をひとつひとつ分解しながら描いていってる感じがあります。彼のああいうものの見方というのは、自分が見ているということはどういうことなのかということを描こうとしてる。それが、キュビズムに受け継がれていって、近代絵画の発祥なんですけど。その時代には写真がなかったし(*白黒写真は既にあったが)、リアリズム絵画なんてなかったし、映画もなかったわけですよ。これほど映像が発達して、リアリズム絵画が出て、リアリズム絵画をやっている水野さんが、あらためてその道(近代絵画が歩んだ道)を繰り返そうとしていると、これって凄く困難な道だと思うんですよね。人間のものの見方を同時に描く・・・エライことを始めたなと思うんですけど・・・

水野: やりがいはあるんじゃないですか(笑)

見ることについて

田島: ものを見るっていうのは、或る制度に基づいていて、例えば、今私はものを見てます。で、いろんな情報がたくさん入ってくるですけど、それ全部一個一個、脳の中で行われて、一個一個の白だとか黒だとか線とかが視覚情報として入ってきてそれが脳という劇場の中でザーッと流れていって、普段それは流しっぱなしなんですけど、意識して覚醒しているときには、必ず、自分なりの決め事を・・・ほんのちょっとした決め事だけを決めて、「これがマイクだ」とか「人だ」とか、いうことにしか注目しないで、いるわけですでよ。あとの残り全部はノイズとして流れちゃう。ところが、そういうこと考え出すと、世の中っていうのを捉えようとすると、流れていくノイズ全部を意識しなくちゃいけなくなってくるんで、大変なことになるわけですよ。これって、自分の精神の制御が出来なくなってしまう状態になって、狂気の世界でもあるわけです。ちょっと(水野さんは)自分の認識というか見る制度を、壊しているという感じがしないですか?

水野: うーん、見る制度、うーん。本当にわかっているのかわかってないか、ごめんなさい、今の話(笑)。なんか・・・ざっくりいうとなんですけど、僕もいつか死ぬんですよ。皆さんもいつか死んじゃって、なんか・・・今僕が絵を描いていて、理由があって絵を描いている感じはしないんですよね。なんか、もっと描きとめたい本能みたいなものが人間にあるような気がして、それをなるべく、画面に定着したいっていう感じはあるんですよ。で、だから、もし自分が・・・田島さんが言った制度というのと違うかもと思うんですけど、いろんな「これは田島さんです」とかいろんな決まりがあって・・・でも本当に見ようとしたら田島さんがどう思うかわかんないじゃないですか、名前がついてない・・・例えば「あの色は赤だ」っていうふうに人は呼んでますけど、でも赤だって名前がつく前の状態でものがあるわけですよね。色があるわけだから、それをどう感じてアウトプットしていくか、そこに自分の意識を直結したいという思いがあって、そういう意味ではいろんなことを壊していきたいという気持ちはありますけど・・・。それが田島さんがさっき言った話と同じかどうかわかんないですけど。違ってますか?

田島: たぶん同じだと思います。「赤だ」と思う、「人だ」と思う前の、カオスみたいな、混沌とした状態を本能的にそれを描きとめておきたいという・・・

水野: そういう感じだと思います。でも、そこでも完全にそうなり切れない自分がいて、やっぱり絵描きたいとか、人に見てもらいたいとかいう欲もあるじゃないですか。仕上げたいとか展覧会来ちゃうとか、そのへんで揺れてるというのが正直なとこですね。完成させたいけど、でも、いやあ、物事って本当は動いているはずなんじゃないかと、また戻ってみたり。ていうふうな、往復の中で、絵を描いている感じ・・・。

田島: まあ、セザンヌにしても何にしても見る制度への挑戦というか、そういうあのう・・・(セザンヌは)自分から発するようなものの見方だったんですけど、水野さんはもう少しフレキシブルなのかな。例えば、お母さんは揺れ動いちゃうけど、受動的というか、向こうが動く・・・それを受け止めるっていう感じがするんですよね。

水野: そうですね。なるべく受け止めたいし、(母は)いつ転んで入院しちゃうかわかんないんで、僕は描く人間だからそれを描いときたいっていうのもあるんですよね。単純にね。