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Discussion

​芸術と科学 -主観と客観を超えて

(田島) ご紹介します。儀保さんです。私この方を呼んだというのは、このあと出てくるでしょうが、まるで生きているかのような、意識があるかのような人間の像を作ります。

最近人工知能とか、人口知能は意識を持つようになるかとか話題になっていますけど、主観的にー主観的にですよー主観的に意識を持つ像をこの人はもうつくっちゃている、と私は思ったんですよ。芸術的には意識を作れているんじゃあないんだろうか、ていうようなアイデアがあったんですけれども、その辺もお話しできたらなと思うんです。

プレゼンテーション 儀保克幸

  儀保です。僕はまあ、東京造形大学を出まして、彫刻のほうを専攻しました。49になるんですけど、最初のころはこういう(fig1)石の作品をつくっていたんですけれども、今回田島さんが用意してくれた企画のなかで、僕は主観を持つものをつくってるんじゃないかというふうなことを言われたんですけど、そこに至る経緯というかそういうものをつくりたいと思った経緯。あのう、自分が作りたいのは、基本的には、人間のように自立したもの、人みたいなものを生み出せるんじゃないかと、そういう願いもあってつくるんですけれども、どうやったらそういうものが作れるか、ということがわかんなくて・・・それで僕が取り組んだのは記憶というところが最初になります。

fig.1

fig.2

fig.3

最初のころは石を削ったりしながら(fig.2)、石を大地から掘り起こして、その石を削ってその土地の記憶とかそういうものをつくろうと思いまして、鳥の羽根みたいなもの(fig.3)は、大東島だったんですけど、大東島で取れた石を使ってそこで起こったであろうことを・・・

fig.4

これ(fig4)は沖縄でつくったやつで沖縄の琉球石灰岩という石からつくったんですけど、そっから掘り起こされた石と体だというのが、タイトルは「昇華する形」というタイトルにしているんですけど、そこで生きていた人たちが大地を通して生まれて、死んでいくような、そういうものを作ろうと挑戦していたわけです。色々土地のこととか歴史のこととかそういうものも織り交ぜながら、物事を考えていたんですけど、なんか、自分にとってもうちょっと、深く考えてみたいなと思いまして。

fig.5

で、これ(fig5)は台湾でつくった作品で、これも2枚の皿があったりして自分と他者みたいなことを考えながら・・・

fig.6

fig.7

これ(fig6,7)は中国での作品ですけど、これは自分と他者を関係づけるということを考えながら作った作品です。お皿とか人体とか象徴的なものだから、象徴的なイメージを結びつかせて自分の伝えたいものを形作るという感覚でものをつくっていたんですけど・・・なんかこう、しっくりこない。

物と物を組み合わせて作るというものと自分が実際つくっているものが、ほんとの自分じゃないみたいな、そういうなんか変な気持ちになりまして、ある時から、石彫から木彫に転向するんです。

fig.8

これ(fig8)は木の作品で「ケースの中の確率的な存在」というタイトルの作品で、「確率的な存在」というのは量子理論とかその辺から出てくる ―「シュレーディンガーの猫」でしたか― その実験にヒントを得て・・・要は観測ですね、観測するということを、彫刻の中でも表現したいと思って、自分というものがあって、生まれた作品というものをどうやって実感のあるものとして観測するかと言うときに、これ(右の白いフレームの中)は鳥なんですけど、この箱(右の縦長の人形が入っている箱)は全部扉が閉じるようになっていて、見るという行為というのは、強制的に見るのもあるんですけど、能動的に見るということを使うことで見えてるもの自体変わっちゃうんじゃないかと思ったんですね。それをさらにこれ(右の人形が入った箱)にガラスがはめ込んであって、あえて直接見えないようなそういう2段階の膜を作って、その膜を飛び越える「労力」ですね。その「労力」というのと、「感じる」というのが、さらに強まっていくという、能動的なものをさらに強くするようなアプローチを仕掛けていくという、そういうことをこの作品で示したかった。僕自身、ほんとに見てるものが何なのかわからない。アプローチを・・・レイヤーみたいなのを重ねることで、「見てる」という意識をより強く感じることができないかなと。 

さっきアーサーさんが言った行動とか繰り返しとかものというのは、彫刻自体を作ることは凄く時間がかかるし、ひとノミひとノミ打つので、何万回、何千回と打撃して形が出て、この苦労とかそういうものがあって、自分自身は作っていてすごく熱くなって、イイとか思うんだけど、他者がみるとそういうのって全く見えないです。人が見たときその苦労が見えないから、せめてこの展示の時に、アプローチの一端みたいなものを示したくてこの作品を作りました。

fig.9

fig.10

これは(fig9)沖縄のウガンジュというところなんですけど、海の横とかいろんなところにある拝所(fig10)ですね。神様に祈る場所があるんですけど、そういうものっていうのは、実際散歩してみると、その土地のなかでもちょっと気になる場所、なにかこう、ちょっと他のところとは違って洞穴だったりとか、何もないところにポツンと石があったりそれは大きさとか関係なくて気になるところに要所要所にポイントがあって、そういう拝所というか霊的な場所というのが作られている。それを、なんでこう気になるのかな・・・凄い原初の感覚を作品に生かしたいなと思って

fig.11

fig.11-2

これ(fig11)は、ここの場所が沖縄で戦地だったんですよ。たくさんの方が亡くなられまして、これ(fig.11-2  少女の像の足の下の赤いもの)はアカバナといってハイビスカスの種類ですかね。アカバナの絵の上に少女が立っている、命の上に自分たちが立っているという・・・。タイトルは「ここにいるわたし」というタイトルなんですけど、そういう作品をつくりました。なんでこのアカバナをそこに使ったかというとアカバナというのは死者に手向ける花でグソウバナともいわれていて、よくお墓とか家とかの周りに使われていて、今、無くなった村とか歩いていて、突然アカバナが咲いている、畑道をあるいているとポツンとあるところがあって、その近くの人に聞いてみると、そこにむかし家があったんだよとか、あそこに昔、墓があって移動したんだよとか、その痕跡が残っていて、その痕跡、何かの痕跡というものは、必ず違和感を放っている。でもなんで人間はこの違和感を気にしたがるかと、それが凄く気になりましてね、なんでそれが気になるのか、その場所を探したいという・・・これは最終的には、自分がここにいる場所を探すという痕跡を考えるきっかけとなればいいかなと思いまして、この作品をつくりました。

fig.12

fig.13

これ(fig12,13)(子供のデッサン)は、さっきの作品の子供はモデルがいて・・・モデルはいるんですけど、沖縄の戦争の画面の中で出てきた、そこで死んだというか、そこで生きてた、戦時中に生きてた子供がフィルムに映っている・・・視線が合った、僕と。その視線が合った子供を自分の記憶の中から、なんで視線が合ったかそれ自体を自分の記憶としてデッサンをして、で、その場所によみがえらせると、だから、モデルはいるんですけど、それは僕と目が合ったという事実だけであって、そのものではなくて自分が得た、子供が実存していたものを自分の中で作り上げてしまう。作り上げるんだけれど、それは、「見た」、という現実があるのでその現実を自分を通してそこに呼び起こすことで、実際には違うかもしれないけど、自分が持っていた実感がそこに現れるという、実感を形象化したいというそういうスタンスでつくられています。作品のモデルのきっかけとなる人はいても、モデル自体を使うことはあまりないですね。

fig.14

fig.15

fig.16

fig.17

fig.18

fig.19

fig.14-19)モデルを使わないっているやり方が最近まで続いてまして、記憶なんですけど、このあとちょこちょこ出てくるんですけど、だいたい街で立っている女の子とか、電車で向かいにいる人とか、ちらっと気になった人とか、後で、全然その時は考えないで後でフッと思い出す時がある、フッとこう、突然、なんのこう脈絡もなく、で、脈略があるものは、考えていくと「あ、あのときこんなこと考えたからこういうことなんだな」っていうのはあるんだけど、それでも、よくわからない脈絡のない記憶っていうのがある、そういう記憶の人物を作るようになりました。

fig.20

それでまあ自分の記憶に残った人をつくろうと思いまして、この子はみんな子供のシリーズで(fig20)とりあえず自分の記憶ということで、子供達はみな目を閉じているんですけど、けっこう人の顔って思い出そうと思っても思い出せない、自分の母親とか一番身近な人とかそういう人でも克明に思い出そうと思っても実は全然具体的に思い出してない。ハッキリ鮮明にその人だとイメージしているのだけれども、写真のようにとか本物を目にしたような実在感は実は全然感知できていないです。だから、彫るときに、何も見ないとホントに彫れないです(笑)。でも一応彫るんですよ、無理やり。そのときはだから、絵を描ける人はなんで絵が描けるのかといったら、そのものを見て描くというのもあるんですけど、マンガとかもそうなんですけど、ある程度形象化しているんですよ、頭の中で。すごく自分の経験とかそういうもので、これはこういう形、こういう形、それで組み立てて、つくっていくんですね。それと記憶というのは別個にしてはものが出来ないので、そこの部分は自分の中で、これはこういう理屈でつくる。だけど自分の記憶の中の一番作りたい部分っていうのはどうやったらその摩擦の中で残るかっていることを繰り返す、そういうことを練習しながら表情とか考えていくやり方ですね。

fig.21

fig.22

fig.23

fig.24

fig.25

fig.26

fig.27

fig.28

fig.29

fig.30

fig.32

fig.33

fig.36

fig.37

fig.31

fig.34

fig.35

fig.38

fig.39

fig.40

fig.41

(fig.21-41を流しながら)それを繰り返していると、意外となんか、主観というのが、見えない主観というか、隠れていて染まっちゃっている、自分でも気づけない染まったものがたくさんあって、そういうものと出会うんですよね。純粋な記憶と、主観的な普段日常的に無意識にやっているものと作りながら比べていくと物凄くたくさんあって、その違いがだんだん見えてくるようになってくる。その中から必要なものと必要でないものを分けて形をチョイスしていく。

でまあ、木彫の作品はたくさんいろいろ作ったんですけど、最終的に結構、目が大事だなと思いまして。人って、目からすべてが始まるんじゃないかと思いまして。人ってやっぱりこう、最初に相対したときに目を見ると思うんですよね。その目を見て、相手の感情とか、行為とかいろんな情報を読み取るじゃないですか。僕の彫刻も目を大事にしようと思っているんです。目をなるべく強く作るようにしてるんですけど。たぶん田島さんが生きているような、ていうものってたぶん表情とかそういうものよりもたぶん目のほうが強かったんじゃないのかなと僕は感じています。

fig.42

fig.43

(fig42)彫刻をつくるときに、全体感が大事とかいわれるんですけど、ものすごく細部にこだわってもいいんじゃないのかなと思って、細部というか物語の出発点ですよね。目から始まって全体に行きわたるとか、なんかそういうやりとりをすることで、作品にどういうふうに人を向けていくかということと、作品自体をどうやって独立させるかということを考えています。これは彫った木くずで、ぐるーって輪になっている。韓国の公園にあったゲームなんですけど(fig43)このぐるぐるとまわって、中心と外側からジャンケンをしてなかなか決着がつかず、全然そこから出れないというゲームなんですけど、それをちょっとモチーフにして、自分の存在というものを追い続けるんですけど、なかなか、自分の存在、どうしても自分の存在というものがわからない、そういうものをどうやったら突破できるかと、そういうことを考えながらの作品です。

fig.44

fig.45

fig.46

fig.49

fig.47

fig.48

fig.50

fig.51

fig.52

fig.55

fig.53

fig.56

fig.54

(fig.44-56を流しながら)結構、話が飛んでバラバラなんですけど、僕はまあ作品つくって、存在とは何かと考えた時に、結構、不安と安心が入り混じるような感覚というか、主観的に物事を話すのですけど、主観とかという以前に自分の自我とか自己とかの存在をすごく考えるんですけど、自分の体以外は「敵」、なんですね。その敵に対して、敵は外部ですから、脅威なんです。その脅威に対してどう自分が対峙するかっていうそれのやりとりが存在そのものではないかと思っていて、それというのは、不安と安心というこの両方を意識するようなその行き来の中でそれをこのなんていうのかな、生きるためにそういう恐怖と打ち勝たなきゃいけないしそういう場所をつくらなくちゃいけなくて、そのことを試行することとか、想像することが、イメージとか想像力とかどんどん広がっていって、自分たちの想像力とか、人間関係もそうですけどそういうものを形成しているんじゃないかなと思っています。

 

脳科学の話をさっき聞いて、一元論、二元論というのがあったんですけど僕もこればっかりはほんとにわからないところがあるんですけど。ただ根源的な人間の物凄く純粋なところでは、内と外、体を、ボディを持った自分と、外、それは情報であったり物であったり何であったりするんだけどそれが明確にまず在るっていう条件の中で想像とか思考を膨らませているというのがまずあるんじゃないかなと。それが、ロボットだったり人工知能だったり開発されてきたときにそのボディを持たない人工知能ってたぶんそれが存在したときに、自分たちの脅威になったとしたら、それは、その脅威に対して安心を得られるアプローチをしなくちゃいけないし。そういう主体というのが人間じゃないよ、コンピュータだよ、というふうになったら我々はこの世から消え去らなきゃいけないし。たぶんそういうモラルみたいな思考がボティを持っている自分たちがたぶん考えなきゃいけないことかなと思います。そういうことを考えながら、それでも人工知能を持ったロボットがそこらへんを歩いていたら楽しいだろうなと思うんですけど、その前に人間の根源的な部分として、ちょっと呪術的だけど木でそこに存在するのを作りたいというのが、今制作の過程です。

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