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Discussion

芸術と科学 ー主観と​客観を超えて

    対談、質疑応答、後記(対談を終えて:田島鉄也)

​対談

田島(以下T) 儀保さんがさっきおっしゃった主観が見えている、自分の主観が見える、という話があったような気がするんですけど、記憶の中で人物をつくり続けていると、最初はぜんぜんそれが思い浮かばないですけど、だんだん見えてくるようになるというか自分の中の記憶を、主観的に、主観を客観的に見る? ていう風に理解したんだけど、そういうことですか?

 

儀保(以下G) 主観というものが、なんでいうのかな、感覚ですよね、自意識っていうか、意識の中で物をみるといういろいろ判断するんですけど、目から見えている映像、目を閉じて記憶に出てくるシンプルなものっていうのがあって、目を閉じてなくても記憶って見えるじゃないですか。わかります?

 

T んん

 

G 人の顔を思い浮かべるんです、目を閉じてなくてもそれって、ものすごく自分たちが本能として自分自身が思っているものだと断定的に決めている、それが主観だと思うんですよね。主観の存在。それとなんだろう、意識していないもの、ある意味脳科学のいう記憶の層のようなものがあったとして、記憶のそういう層を、思い出そうとしているときに出てくるものは、もしかしたら客観的な映像なのかもしれない。ある手法、やりかた、そういうものが、たとえば、文字自体は意味のないものだが経験がその意味を知らせてくれるわけで、その経験というのは記憶じゃないですか。観てるものも記憶なんだけれどもそれを実感としてそこにありますよ、というのは主観じゃないですか。わかります?

 

T んん・・・ありますよ、って考えるのは主観ですよね。

 

G でも、「あ」っていいものがここにありますか、って言ったときに、物質としてあるのか、「あ」というものがどこにあるのか、それはすごく観念的な存在じゃないですか。

 

T はい

 

G 自分たちはいつのまにか経験としてその観念というのにものすごく支配していて、スムーズに生活できるようになっているけど逆にその、それと自分がさっき言ってた記憶というのがごちゃまぜになっているから。そこをこう、取り分けて、シンプルなものとして見えるようにしたときに、なんかもうちょっと本質がみえてくるんじゃないかな。というアプローチの仕方ですよね。

 

T 何と何がごちゃまぜになっている?

 

G 存在しているとか、感じたとか、実際のこう、、ここに居るとか、私はここに絶対居ます、みんなわかると思う。それと、経験した記憶、経験した動作とかやり方とかそういうものを別に分けている。

 

T うんうん。例えば電車の中で或る人を見たとします、それがすごく印象に残った、それをふっと思い浮かべて、この経験というのは、他の日常の経験とは違うものだ、という、その二つを分ける必要があるというですね。

 

G 分けて考えないと、主観の本質に迫れないんじゃないという、分かります?

 

T わからない。・・・その記憶を取り出す、本質的な主観を取り出すプロセスがあるっていうことですね。

 

G でいうかそのプロセスがあるから、僕は作品を実体化させるためにそのプロセスを踏んでる。絵を描くときに、人の顔でもなんでもいいですが鼻とか目とか描くときにこの目は見えている目だと、見えている目だと思って描くのと、ただ輪郭で描くのとそういう意味あいが変わってくるし、表出するものも変わってくると思うんです。その表出するものも変化というものの差をどうやって自分で作るか、作ることでどうやって突出してそれを出すか、鼻が吸うように、できているけどそれをただの三角の山だと考えるのか、吸うものだと、吸うってことはいろんな感覚が混じってくるじゃないですか。吸うための機能が自分の実感として得られる形としてチョイスしてるんじゃないかと思うんですね。しらずしらずのうちに。それは目をとおして実感できる。わかると。そういう感じがします。というところの感じが僕と作品の中に生まれて、それがまた、人にも派生するかもしれない。なんかそういう共感を得るみたいなのは作ることができるのかなと。空間というのは、つくれれば、主観を他に移すことができるのかなと。

 

T 今記憶の話があって、アーサーさんに伺いたいのですが、アーサーさんもまた記憶を元に作品をつくるわけですが、だいぶ違う。ふっと思い浮かんだ、主観の本質じゃないじゃないですか。それは手続きがちゃんとしてて、家を出てから帰るまで。その思い出し方というのは、ちゃんと事細かに、キチっと思い出せるんですか?それとも普段道をあるいている感じとは違うんですか?

 

アーサー(以下A) 結構毎回、思い出すとき、わたし作品は、同じ日、出発点のリスト見えて、一日後、一か月後、一年後、この前カメリア(注:銀座のギャラリーカメリア)でやっててちょっと思い出から卵の殻に描いてまたもう一回、また散歩けっかん、繰り返し散歩して線の形は同じでも毎回毎回思い出し方結構違います。

 

T どう違うんですか?道順が違うんじゃなくて、思い出し方が違う?。

 

A 思い出しながらも、線描きます。記憶がバンになります。仕事いって帰る、収穫はあまりない、でも例えば、今日とか例えば旅行いって、あ、あそこでなんかクルマの事故あります。パンに思いますその出発点のリスクだけみえてその記憶は生まれない。おもいだしながら、散歩通った道、ときどき無意識な記憶が意識になります。描きの線はもう繰り返しの通った道、私毎日仕事行って帰る、毎回なんか間違えての思い出気づきます。あ、これ階段は4つひとつまがってまがってまがって前は三回目いって右にいって左にいってほんとに左いって 六か月間、あ、この階段下って右にいってでも本当は急に思い出して、あれこれ左に、ほんとに左の期、期間。。。とか、それが毎回毎回これが現在の経験で私の記憶が毎日毎日変わりますからもう、今日思い出しながら、また来週思い出しながら、同じ日、なんか、なにがか間違える可能性結構あります。

 

T それは何かの可能性、たとえばエピソードというかストーリーとか印象深いものそういうものと結び付けて記憶されていったりパンとおしゃいましたけどそれは、いつもの道を通っている途中でなんかこう閃くというかここで間違えたとかここに変なものが落ちていたとかそういうようなことと結びつけて記憶されているということですか?

 

A ・・・・

 

T あまり適切じゃない質問だったかな?

 

A そう、なんかちょっと違う、けど、私むかし脳科学研究の前に記憶のイメージは例えば、図書館とかハードディスクでデータとって、毎回取って、データは壊れない、でも今の仕事やって脳科学の研究されて論文読んで、絶対、間違えた。本当は、たとえば記憶思い出しながら、現在の経験、その思い出しての記憶、影響があります、それで現在の経験と思い出の記憶、結構組み合わせします。100%じゃない、5割とか1割とか0.5割でそれまた記憶になって、次の思い出しながら、現在の経験結構影響あります、それでその記憶は事実じゃない。毎回毎回それみなさん言った、一番正しい思い出は、思い出せないの記憶。それはその習慣で、経験やってて、記憶になって、でも思い出しせなかった、ほんとに事実、でも毎回毎回わたし記憶結構変わります。それたぶん私の散歩記憶プロジェクトのちょっと難しいが、現在の経験と思い出結構組み合わせるでしょ。どの記憶がどの記憶

毎日毎日影響があります。ちょっと取り分けにくいと思います。

 

T あのう、お二人のお話しを聞いていると、私自分の主観を見るという、自分の心を見るという作業、これがとても印象深く残ったんですけどその心を見るやりかたっていうのをお二人はそれぞれ開発してきたのではないかと思っているんですよ。自分の主観をどうやって見ているか。心を見るって、自分の心の働きを見るってことは、もう一つ視点を自分の中につくるっていうことですよね。

アーサーさん、わかります?

 

A わかります。

 

T で、そうすると、気持ちが変化するっていうか、自分の心を見ようとすると心が変わっているじゃないですか。

 

G だから、心を、自分を俯瞰してみようとするとそういう現象はおこるんだけど、心のひとつさっき、恐怖植え付けの話があったんだけど、その衝動みたいなのが実感とかそういうものっていうのは、いちおう俯瞰は可能なのかなと思っていて、これが俯瞰可能でなければ記憶と同じものになってしまうので。これが離れないからこそ実感というなんか・・・

 

T そのときに、自分の心をここ(自分自身の場所)から離して、「これが自分の心です」っていうな感じでみてるんですかね。

 

G いや、それできないですね。

 

T できないすか?

 

G なぜできないかっていうと、やるとできない自分をわかってくるんですよ。できない、疎外、じゃなくてそれを見る自分をつくっている自分もできちゃうから、だから、見れない。できちゃう自分はどっから来ているのか考えて、、、、

 

T いつまでもいつまでも、後ろに、、、

 

G その追っかけっこをやることで、ある程度排除はできるから。その訓練ができるから。記憶を作る訓練と同じで、記憶を排除する訓練を、、余分な記憶をよける訓練っていうか、余分な、まあ、要は・・・既成概念ってある、よく「既成概念を取り払えー」ってある。結構既成概念にあふれていると思う、人間て。自分の経験の既成概念もものすごくかかってて、自分のかけたものをちょっと外してみるっていうのをやると、以外とこう、スっと見える時がある。でもなんかこう芸術活動っていうのはアイデアだけを取り出すだけではなくてそういうところにシンプルに落とし込むような作業をしてるんじゃないかな。

 

T どんどん、どんどん、後ろに下がっていくとうところじゃなくて、そういうどんどん後ろにさがっていくことを、。。いまなんとおっしゃいましたっけ?

 

G 俯瞰?

 

T 俯瞰する、っていうか、切り離す。

 

G 切り離し、排除するっていうか。ちょっと、、よけて・・で、なんだろ想像力ってあるじゃないですか。想像力ってなんで浮かぶのか?想像力って危険予知だと思ったんですね。自分の危険をある経験からまずいとか危ないとか。経験予測の次に、予測のために想像力を働かせなきゃいけないじゃないですか。それっていうのは経験値として記憶されてくるじゃないですか。たぶんそれの複雑な形が多分人間の中に浮かんでいて、でも、それと、実体験の衝撃はたぶん恐怖体験と同じシステムになっていて、こっちは経験システムみたいなのがあって、それが折り重なって、想像するシステムがあるんじゃないか。

想像するシステムをどうやって全開にするか、全開にしたいということが芸術家じゃないかと思っていて、だって自分が想像したものを作りたい、自分の想像しているものを膨らませたいわけだから、そのアプローチも結構近いのかも

 


T あの、さっき私が一番最初に言った、ものを見る仕組みについて分割していく最小単位はこうだっていうのがあったじゃないですか。例えば、危険を回避する仕組みというモジュールが意識・無意識かもしれないけど心の中にあって、で、いろんな仕組みがあると、それをこの働きをするモジュールだと、別の想像力を働かせるモジュールがあって、まるで、機械の部品を一個一個よりわけるように、パソコンでいえばこれがモニターです、これがメモリーですというように、心もそのように分解してそれぞれその働きをチェックすることが出来るとおっしゃっているのですか?

 

G ま、それに近いですね。近いというかそういう、それが事実かわからないけれども、そういうことをすることで、物事が見えやすくなる。

 

T それが、自分の心を見ることだ、と。

 

G そう、あなた、自分の本質は何かと考えたときに、すごくたぶん最小単にしていくと思うんですけど、そういうやりとりかな。

 

T それがさっき言った、切り離すということ?

 

G そうそう

 

T なるほど。 アーサーさん、そういう心の見方というというのは、科学というのは物事を観察することですね。心を見るという観察方法は、科学の方法としては確立していないんですが、アーサーさんも恐らく、儀保さんが今言われたような心の見方をしてるんじゃないかなと思うんですけど。 自分はどう行って、こう行ってって

 

A あー・・・。それは、本日でのプレゼンテーションで私の日々ドローイングの これ私のこころの見方に一番近い、短い説明しますが、毎日電車に乗って、A5サイズのノート持って、無意識にマークして、通勤時はほとんど無意識のドローイングやってます。

 

T 電車の中でこうやって(左手にノートを持ち、右手にペンを持って描いている)やってるんですね。

 

A みえるでも、毎日形は全然決まってない。最初一週間は円を描いて、線描いて、次々と・・・。それでほとんど音楽聞くとか、通勤中もう8年間同じ、つまらないから、なんかやりたい、一番ちかいのは、電話で誰かと話す、ペン持ってて、ちょっと話す、マークする(何かを描くような仕草)。

 

T はあ、よくやりますね。

 

A それで、いまちょっと、卵の殻のサンプル記憶のプロジェクトちょっと意識のみたい。それでその日々ドローイングはもうちょっと無意識ね。それで時々、もうまだ気づかないけど、これたぶん私の心のなんか瞬間一番近い、でもすごい読みにくい、意味ぜんぜんわからないけど、毎日毎日たとえば、この前ハスノハナ(注:前回アーサー氏が個展をしたギャラリーHasunohana)でやった、アメリカの選挙の結果11月9日トランプが大統領になって私がハートの形、でも割れたハートを描いて、私、ほかのドローイングはイメージがない。それでなんかこれほんとに心からの主観が見えて、それでだんだんトランプ大統領になってちょっと激しいマークもあります。これ、アメリカの選挙前にそのマークぜんぜん無かった。それもう無意識にちょっと、これもうちょっと気づきやすいマーク、でも毎日毎日なんかモチーフが変わりますとか、それ今制作中の中之条ビエンナーレ。100パーセント無意識じゃないでも、何割無意識、そのマークが読みたい。これ何の自分の心の何の意味がありますから、これ今の新しい作品つくりたいとか。卵の殻はほとんど・・・主観じゃない、主観じゃない。これもう、客観。

 

T 自分の心を観察している科学者として、マウスの行動や記憶を観察するということと、自分の心を観察するというのは、違うことですか?

 

A 違うと思います。

 

T 自分の心を見るときは、科学とは違う手法を使うわけですよね。

 

A そうそう。

 

T そこが主観と客観をつなぐ橋かもしれないなと、今、思ったんですよ。心を見るやりかた。これっていうのは、人間の心の内部でやっていることだから、科学の対象にならないわけですけど、測定もできないし。でもなんかそういうところにヒントがありそうな気がするんですよ。それを、でもね、今回私がディスカッションをやろうとしたヒントがあったんだろうなと思うんですが。

 

あともう一つ。儀保さんが最後に共鳴とか、共感とかおっしゃったじゃないですか。それは自分が作った像との共感?

 

G そうですね。一番はそれですね。

 

T だから、ここに意識が宿ったものが居る、人が居ると、本気でそう思ってやっているわけですね?

 

G そうそう。最後にそうなってくれたら嬉しいと、思いながらやるわけです。諦めはしないわけです。無理だとは思わない。

 

T 確実にそこに意識が宿ったと言えるんですか?

 

G それはまだ出来てない、それを挑戦するためにずっとやっている

 

T まだ出来てない?

 

G まだ、全然できてない。たぶん(意識が)宿ったら、自立すると思うんです。

 

T 自立って?

 

G なんか別のものが見えてくるじゃないかと僕は思ってて、やっぱ自分が作っているもんだから。自分が作っている以上のものを出すもの、じゃないかと思って。普通の岩とか石ころとかと同じくらいのエネルギーを持ってるというか。人が作ったもののエネルギーを放つものと同調したようなものというイメージはあるんですけど。作ったものってそれこそ自分のいろんな考えていることが美術を使ってそれをやるんだけど、無意識のものに勝てないと思って、そういう場所をつくってやりとりはするんだけど、完璧なものには永遠にならないところがあって、永遠っていっちゃいけないけど、どうやったら自分の求めている完璧なものに近づくか、すごく抽象的な問いなんですけど、石ころと同じテンションを作品で、自然物と同じエネルギーを作品で出せるようなもの、自分、人間が持っているエネルギーと同じようなものを作品でも出せるもの、というふうなことをしたい。そのために何を。。。ものすごく克明に、プリンターつくったほうがいいやとか、人間の細胞作って人間作ったほうがいいんじゃないかとか、というものとは違うそこになにか、科学とは違う、主観みたいなもの・・・実存・・・自分たちがいる実存みたいなものを形作ることができるんじゃないかと。

 

T 私は実際儀保さんの作品をみて、写真だと良くわかんないんですけど、実際にみて、その像と目を合わせると、確かに何かを感じるわけですよ。だたの像ではない、何かを。ずーっと見入っちゃうわけですよ。

 

G それがだから、きっかけですけど。それこそ。

 

T なんか確かに生きているように見えます。

 

G 気配とかあるじゃないですか。

 

T これは、儀保さんのいうシンギュラリティーというか、そこに知性が宿ったとは言えないんですね。まだ。

 

G まだですね。それをじゃどうやってもっと精度を上げていくか、まだ足りないところがいっぱいあるんで。でもなんか、一つのとっかかりはそういうところだという

 

T あの、「共感がなぜ起こるか」というのは、まだ謎なんですよ。人が血を流して痛がっているのを見るだけで、なんでこっちが(辛い気持ちになるのか)。詳しく解明されてないし、確かにミラーニューロンといって、笑ったら笑い返すというときに働くニューロンがあるんですけど、共感共鳴に対するメカニズムがどうなっているのかまだわからないですよ。

 

G なんで人は美を感じるかというのがあったじゃないですか。カントですか。

 

T カントのいう美的判断。

 

G あれって、対象物と自分がある程度切り離された状態で、そこから、なんだっけ、一枚の絵があって、怖い、船が浮かんでいて、なんだっけ、美を感じる瞬間というのは現実、実生活とかそういうものと切り離された瞬間に感じるらしんですよ。そういうこと書いてあったんですけど。

 

T カントの判断力批判だと思うんですけど。そこにカントのいう美の定義が書いてありますよね。

 

G なんか距離感というかな、日常と非日常、その距離感が美を感じさせるってうなんか。一番最初に僕が言ってた自己を守るっていう不安と安心のハザマという、自己というのは安心の中にあって、外に不安があって、それをひとつ安心させる要素として、美という感情が起こるんじゃないかと僕は思っていて、その美という感情は美しいとかそういうものじゃなくて実感を得るというか実体を得るというかなんかそういうそれこそその自我を認識する瞬間とものすごく近いのかなと思って。美というのはだから、根本的にはそういう仕組みなんじゃないかと思って。

 

T まあ美は安心感というか安らぎというかコンフォタブルなものだという定義はあるはありますね。

 

G でもそれもやっぱり情報とかとは、まったく別なところにあるじゃないですか。今話してるその、主観を見つけることっていうのは、すごい根源的なものなのかなあと思いますね。

 

A 儀保さん、一点聞いていいですか。主観によることで、今ほとんど意識の話、いまちょっと興味があります。例えば、電車内に誰かを見て、あとで気になったの思い出があります。夢の中に作品の影響ありますか? 例えば夢とか起きて、急に気になって。

 

G ああ、ありますというか、作品には直接ないんですけど。夢の絵を描いたりするんですけど、夢の絵だけは後で冷めて、面白くないんですよ。だけど自分で起きているときに思い出すものっていうのは、どっかしらどっか関係があって、見えないものを見せる。だから夢は、関係があったとしてもそんな大した、ほんとに自分に影響を与えるような大した関係性というのは少ないんじゃないか。フロイトとか夢判断とかそういうのって、ある程度は正しいかもしれないけど、あんまり深さはもっていない可能性も高いかなと思います。

質疑応答

T そろそろ観客の皆さんを交えて話していきたいと思うんですが、何か質問やご意見は?

 

質問者A  最初の図の中でV2とV3という部分で、V2が輪郭と形がわかる、V3が損失するとビルを描いたとき、絵を克明に描けてもそれがビルであるということがわからなくなるというのがあったと思いますがそれって、そのV2が線でV3は形というか奥行きも含んだ形ということなのか、それともその認識自体というのか、何かその表面的なものではなくて結びつけっていうことですかね、記憶との結びつけができなくなるということなんですか?

 

T 僕は専門家ではないので、本で読んだことをそのまま申し上げますと、例えばあなたが私を見ていて、輪郭線はわかるじゃないですか。輪郭線はわかってもこれ(田島が自分の腕を差す)が円筒形をしているということは理解できなくなっちゃうんですよ。

 

A えっと、その後ろ側がわからない?そしたらその奥行きがわからないということ?

 

T そう奥行き、3次元を含めた形として認識することができなくなることですね。

 

A わかりました。

 

G なんかすごく驚異的ですね、そういう事実がわかると。自分がいままでこれは主観だと思っていたことが、客観的になってそういう機能があって、ということになると、あれって今まで想像してた、これもまた外そうと・・・

立体感というのは、ちょっと、違うんだ。立体感というのはね、弱さもあるし強化の仕方もあるし、でも無意識のうちに感じている場合もある。で、脳が欠損したときに、その機能自体の構造がはっきりすると、立体では想像できないという立体物のない世界もまた一個出来上がってくる。逆の意味で新しい視点が生まれるかな。科学はそういうところで面白いと思います。全然自分の想像してないところで結果が出ると。

 

T 他に何か。

 

質問者B   とても興味深い話でとても面白かったですが、ずって聞いていてですね。どうしても主観と記憶というのが、主観イコール記憶として話されている気がしたんですよ。例えばですよ、街の記憶とかいう言葉もあるじゃないですか。そういうときの主観というのは個人のレベルではなく、団体としての記憶であったり主観であったり、ということもありうるということを踏まえて考えるとですね、今回の話とは話がもうちょっと膨らんでしまうかも知れないんですけれども、どういうふうになるのかなと、とても疑問として、アーティストとして制作されているお二人に聞きたかったなというのが一つ。

お二人のベクトルが違うので、主観イコール記憶を作品化しているときのベクトルが全然違う方がここにいらっしゃるということで、とても面白かったです。例えば儀保さんは主観を突き詰めて突き詰めていく、その突き詰めていったものを出したときにたぶん客観的な作品として、そこに存在すると、でもう片方の卵に描いていくというのは、記憶をまず記号化してその記号を通して突き詰めていこうというそういう姿勢が、二人の姿勢が違うベクトルにもかかわらず、同じものを扱っているということにとても興味を抱きました。私、ずっと聞いていて、もっと膨らんでお話したいなと、膨らませてお話をしたいなと実感としてあったので

 

T あの一番目は、質問ですか?

 

B とりあえず質問なんですけど、これをやってしまうととても時間がかかる気がするので・・・

 

T ちょっと理解だけさせて欲しいんですけど、主観イコール記憶、個人の記憶しては確かに今まで話してきました。それが他者と共有できるという・・・

 

B はい、(他者と共有できる)記憶というのも存在するし、もうひとつ、もっともっと膨らませていうと例えば、演劇とか絵画を通してでも、ああ自分にもこういう体験があると共感していく、そういうのは作家として主観的に描いたものを、他者が共感して・・・先ほどの作品ではないんですけれども・・・他者もそこに共感するという図式がありますよね、その共感を通して、例えば共感したときに、その主観っていうのが、どこの位置にあるのか、だからその客観・・・要するに主観と客観ではなく、今その二つに分けすぎていて、私の中ではほんとはそこは綯い交ぜ(ないまぜ)になっているところが芸術なのではないかと、思っていたので、はっきりと分かれていたのでとても分かりやすかったんですが、もうちょっとその、ぐちょぐちょっとなっている、そこの部分をどう考えていらっしゃるのか、それがとても質問したかった部分ですね。

 

T いってみれば、ある映画を見た。私は映画を見た、あなたも見た。良かったよね、というこの共感というのは記憶、他者と共有できる記憶かと思うのですが

 

B ただ、良かったよね、が違うところかも知れないですよ。

 

T 良かったよねという言葉の裏にいろんな良かったがあって

 

G 結構、自分のことを考えてくと、だんだんわからなくなってくる。客観的な自分のほうが正しいのかなと思ったりすると、そうすると集団意識とかいう話になる。

 

B なんかその客観も、客観だと思っている主観だったり・・・そのすり替えが、人間として面白いなと思うんですけど。

 

T 深いですね。さっき言った自分の心の見方というのは、ある方法として成り立つのじゃないかと思ったんですけど、そう単純なものではないですね。

 

G ただでも、なんか自我みたいな、自分の意識に今回は焦点当てたいのかなと思っていて、それとミームとか集団意識みたいなものは、自分の意識とは全く無関係になんとなく全体的にそう動いてしまうっていうのって、こっちが客観的に現象をみて判断するしかなくてそれが能動的な関係性があるかどうかっていうのを感じる方法って、ちょっとまた別のやり方じゃないと認識できないなあって。

 

B こういう場で、キチッと明確に主軸があって聞きやすくて、このあと懇親会があるということで、そこで話を膨らませるのも、まあ、そういうのもいいかなと

 

T はい、ありがとうございます。2時間、お疲れかと思いますが、私も頭が、ニューロンが発火するわけじゃないですけど頭から煙がでそうで。はいでは、お二人、アーサーさん、儀保さん、ありがとうございました。拍手をお願いいたします。

このあと、懇親会でして、ちょっとした飲み物も用意してありますので、アルコールが入ると大脳皮質が麻痺して、主観と客観の区別がつかなくなるという現象もあるみたいですから(笑)

後記 対談を終えて      田島鉄也

無謀な試みだったと思う。あらためて対話を活字に起こして読み直してみると、とても短時間で何かが達成できるような話題ではなかった。

芸術は、主観的なプロセスを踏みつつも、物体としての作品をつくることができるので、そのプロセスにどのような秘密があるのか、そこに何かヒントがあるのではないかと思ってこの企画をしたが、話は断片的な問題提起で終わった感がある。

 

しかし、この対話は、乗り越えるべき問題の性格をより明確にしたのではないだろうか。

儀保さんは多数のことを語ったが、読み解いてみると「既成概念」、「観念」、「(主観が)染まっているもの」というものを「取りわける」「切り離す」作業をしていく、その過程には無意識の中にある人の像などの時間を経る抽出も使い、そして、本質的なものが「スっと見える」「シンプルに落とし込む」ところまでもっていく。

アーサーさんは日常的な活動の中で自分を実験サンプルにして実験をしているが、見事なほど徹底して自己の感情には関わっていない。科学者として、またはコンセプチュアルアートをつくる上での方法論を徹底している。

対称的な二人にみえるが、無意識のプロセスを関与させていることは共通している。自分に見えない心の未知の機能を使っているのである。

 

今にして思えば、儀保さんが石彫から木彫に転向した最初の作品のテーマが量子力学だったということは、もっと注目するべきであったと思う。

量子力学の創始者のひとりシュレーディンガーは述べている。「主体と客体は一つのものに他ならない。最近の物理学実験の結果、両者を隔てる壁が破られたというべきではない。そんな壁は最初から存在していないのだ。」(「精神と物質」エルヴィン・シュレーディンガー)

心を理解するには、科学的なものの見方では不可能なので、新しいものの見方を作り上げる必要がある。そのために量子力学は大きな示唆を与えてくれるだろう。実は量子力学は科学ではない。「コペンハーゲン解釈」という言い方があるが、「解釈」つまり「捉え方」を提起しているのである。自然を観察するということは、舞台にいる演技者を観客が観察するように見ることはできない。自然とは、自然を見る観察者との相互作用であり、客観的にみるということはすでにできない。全員が演技者なのである。

心も自然現象の一つなのでその例外ではない。量子力学によると、観察すると対象の状態が変わる。同じことが心にもいえる。心を観察すると、心の状態が変わる。したがって、心のアプローチには或る解釈にもとづく独自のやり方・・・心の技術/技法ともいうべきものが必要なのである。アーサーさんも儀保さんもこの技法には自分なりのやり方に長けている。

儀保さん、アーサーさんの両方に共通するものを、抽出し、それは何か見極め、その可能性を醸成していく、芸術を通じて得られる心の技術として、主客一体のパラダイムを醸成することがこの作業の中心にあるべきものであったはずだが、残念ながら議論はそこに踏み込んでいない。

 

現代人は心について語る語彙が不足している。今、私は語彙といったが、心の技法といってもよいかもしれない。古い時代の規範的な心の持ち方に自己を委ねることはすでにできない。我々には新しい言葉、新しい知識、そして新しい心の技法が必要だ。これまでとは異なる物事の捉え方が必要である。私は、アートの言葉でそれを語ることを目指している。これまで芸術家の心の内部で行われていた秘密を公衆の前に晒しその手法を検討することによって。

人口知能がますますの興隆しつつある今日、また、グローバル化する世界とは裏腹にさまざまな分断が起こっている今日、心についての問題はますます重要になっていくであろう。この企画が、そのような情勢における、変革の小さなきっかけの一つになりうるならば幸いである。 そして探求はまだ続く。

アーサーさん、儀保さん、会場を提供してくれたSYP art spaceの吉野祥太郎さん、そしてお越しいただいたすべての方々に感謝いたします。

2018.1.4    田島鉄也

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