Discussion
芸術と科学 ー主観と客観を超えて
アーサー・ファン / 儀保 克幸 / 田島鉄也(コーディネータ)
会場 SYP art space http://arttokyo.sub.jp/ (東京都 新宿区住吉町10-10)
期日 2017年 5月 14日
近年の脳科学の進歩は著しく、科学的な精神現象の解明が進んできました。
認知や感情を脳の機能によって説明することができるようになってきました。心は、もはや神秘的な現象ではなく神経生理学的な現象として捉えることができるようになってきました。美を感じるとき脳はどのような状態にあるかという検討もなされています。
しかしそのような取り組みには決定的なギャップがあります。主観と客観です。感情は脳の機能で客観的に説明できるとしても当人にとって悲しみは絶対的に悲しい。科学は心の主観の前では無力です。
主観(芸術)と客観(科学)の対立は、最近ますます際立っています。しかしこの二つは本当に完全に隔たっているもので、永久に出会うことがないのでしょうか?主観と客観の深い谷に、橋がかかることは無いのでしょうか?
ここに二人の芸術家を迎えてその問題を話してみたいと思います。
一人はコンセプチュアルアーティストで現役の脳科学研究者でもあり、客観的なアプローチから自身の心の働きを追及しています。もうひとりは彫刻家で主観的なアプローチから像に心を吹き込むかのような制作をします。それぞれのアプローチから主観と客観の問題に切り込む議論を期待します。
田島鉄也
● アーサー・ファン コンセプチュアルアーティスト https://arthurjhuang.work/
脳科学研究者でもある彼は、空間の中で自分の場所を記憶する脳内のメカニズムにヒントを得て、その日一日に行った道筋を卵の殻の上に記載する作品シリーズを展開している。
● 儀保 克幸 彫刻家 https://gibonee.jimdo.com/works/
まるで心があるかのような少年や少女の像を、木彫やテラコッタで制作している。
● 田島鉄也(コーディネータ) アーティスト https://www.te-tajima.com/ 16時-18
プレゼンテーション 田島鉄也
今日はこの3人の対談ということなんですけれども、最近、脳科学がとても進展してきたのですが、脳科学がもたらす意味というものが置いてきぼりにされていて、それがにどういうふうに意味をもたらすか、どういう意義があるのか、心とはどういうものか、ということを、芸術の立場で何かできないだろうかと考えました。
それについて話をするのに、どういう人がいいだろうかということを考えて、今日のお二人のアーサー・ファンさんと、儀保克幸さんをお呼びしたわけです。
最初に、私が今日のディスカッションの目的について話します。
脳科学の現在の動向と、脳科学と意識の研究の動向についてごく簡単にお話しをし、みなさんと知識を共有しておきたいと思います。
視覚の機能、神経美学について、主観(意識)の謎、芸術の可能性 について話をします。
視るということはどういうことか、科学的にわかって来たわけですよ。漠然としたものではなくて、脳の内部でいろいろなことが起こっているということが分かってきました。これ(左下)は人間の脳の模式図です。左側に顔があって目があります。
後頭部にあたる部分に、視覚に関係する部分、視覚野といわれる部分があります。目から入った情報は、まず第一視覚野、V1と呼ばれているところに来て、それから、いろいろな視覚の要素に応じて、いろいろな場所に情報が行きます。情報が行くとは何かといいますと、最近は磁気を使って人間の脳の働きを知ることができる機械(機能的MRI)があってその中に入った人間にものを見せる。そうすると脳の中のどの部分が活性化しているかわかるんですよ。それによってそれぞれの部分がどういう働きをしているかわかるようになった。例えば、V2と呼ばれている部分は、輪郭を認識します。V3というところは形を認識します。V4は色を認識します。V5は、運動を認識します。
活性化するとは何かと言いますと、血流が速くなるということですが、神経細胞、ご存知と思いますがニューロンです。ニューロンどうしがごくわずか接触しているところがあるんですよ。或るニューロンが活性化するというのは、電気のレベルが上がる。電位が上がるんですね。そうするとその電位がとなりのニューロンに伝わって信号のやりとりが行われる。ものを視て最初にニューロンが活性化するのはV1であって、その次に色を認識するV4、輪郭を認識するV2とか、そのあと連合野と呼ばれているところが発火します。この順番にパパパッとニューロンが活性化する。皆さんも今ものを視ているわけですが、縦とか横とか四角とか白いとか、そういうものを見て、皆さんの脳のなかで、バババッと活性化が起こっているわけです。
それで、脳梗塞などの病気になって例えばこの運動を認識するV5が損傷を受けたとします。その人は運動するものを視ることができなくなっちゃうんですよ。具体的には、パラパラ漫画というか紙芝居みたいな世界にみえてしまって、例えば、コップに水を注ぐ場合、コップに水を注ぎ始めた映像がまず見えて、次の瞬間にはあふれ出している映像になってしまって、コップに水を注ぎこむことが難しくなる。あるいは道路を渡る時に、遠くのほうにクルマが見えているから渡り出そうと思ったら、次の瞬間にはすぐ近くにクルマが来てしまうというような、不思議な世界になってしまう。V4のところが損傷をうけると色を視ることができないわけです。目は正常なんですけれども色の感知ができなくなってしまう。それから形を認識するところがやられてしまうと変なことがおこりまして、そういう患者に或るものをみせて絵を描かせます。輪郭は認識するところは正常なので、輪郭線は描けます。建物を描かせると、縦線、横線、窓の線、ちゃんと描けます。かなりうまく描けます。ところが、「あなたは何を描いていますか」と聞くと、その患者は「分かりません」と答えるんです。形がわからなくなっちゃう。「建物ですよ」と教えても自分が何描いているのかわからない。人の顔がわからなくなることもある。目とか鼻とか耳は認識できるんですけれども、顔全体を認識することができないので、誰が誰だかわからない。「田島です」とか言われて初めて「あ、田島さん」とわかる。そんなことになってします。
というわけでものを視るということは脳の中のいろんな箇所がいろんな働きをほぼ同時にやっています。我々はそれを無意識のうちにやっているんですね。
さらに細かくいいますとニューロン一個一個に役割分担が振り分けられている。機能分割されているということが分かってきました。これは動物実験なんですけれども、訓練したサルにこういう絵(スライド1の右の棒線)をみせます。或る特定のニューロンを観察しています。縦の線をみたときだけ、そのニューロンが著しく信号を発する。横の線をみせても全然反応しない。斜めの線を見せるとちょっとだけ反応する。その特定のニューロンは縦の線を見せたときだけ反応する。同じように横線を見せたときだけ反応するニューロンがある。斜めの線を見せたときだけ反応するニューロンがある。斜めの時の角度もいろんな角度があって、それぞれ別々のニューロンが斜めの角度の認識をします。
同じように色選択性ニューロンもある。赤を見たときだけ反応するニューロン、黄色を見た時だけ反応するニューロン。
あと運動方向。右に動くものを見たときだけ反応するニューロン。縦に動いた時だけ反応するニューロン、斜めに動いたときだけ反応するニューロン、動きの角度もそれぞれ違う。あとで、アーサーさんから話があると思いますが、場所細胞ですね。場所を認識するニューロンがあって、皆さん、今、家からここまでどうやって来たか覚えているかと思うのですが、いろいろな場所をおぼえていると思うんですけれどもそういうものに対応するニューロンがあるんです。物凄くたくさんのニューロンがそれぞれ違う役割分担をしているわけです。それは、大変精緻なもので、よくできていると思います。
このことに着目して、機能分割された視覚情報をもとにモダンアートを読み取ろうという試み、神経美学、Neuroethicsというのが出てきました。例えばセザンヌの絵なんですけれども、セザンヌの絵にはいろいろ解釈があるのですけれども、或る一つの解釈、私の解釈なんですけれども、セザンヌは視たときの心の動きを描いた人じゃないかなと思うんですね。ものがあったらそれをそのまんま描くのではなくて、自分がそれをどう見るかというのを追及したのがセザンヌじゃないかなと思うのです。セザンヌは自然は立方体と円柱と円錐とから成っているといいましたが、そういうと、セントビクトワール山の手前にある風景とか、セントビクトワール山そのものもさっき言った角度にそれぞれ当たっているかのような、いわゆる面取りをされて認識されているのがわかるんですね。自分が視る、ものの見方というものを要素分けにして描いているというふうに見えます。ここからキュビスムというものが始まって、そしてそれを極限まで追求したのがマレーヴィチですけど、マレーヴィチの描いた、無対象絵画、対象を持たない抽象的な絵画なんですけれども、彼が描いた黒い四角形とか、あるいはこの棒線ですね、棒線とかをみると、さっきの(脳の機能実験にもちいた)棒線によく似ているわけですけれども、あたかもマレーヴィチは脳科学を知っていたかのように視覚の情報をそれぞれの要素に分けて描いたかのように見えます。だからと言ってこの絵画が視覚の要素分解を説明しているだけではない筈なんですが、それと深い関係があるように見えます。
私は考えるんですけれども、マレーヴィチが脳科学を知っていたらどう思うだろうかあるいは、マレーヴィチが今生きていてそれを知ったらどう思うだろうか、と思うのですが、「私の言ったとおりだ」というふうに思うだろうか?。僕はそうじゃないと思います。
たぶんマレーヴィチは、「私は別に科学を説明するようなやり方で絵を描いたわけではないよ」と言うだろうと思います。マレーヴィチは、純粋な自立した無対象芸術、つまり絶対的感覚をここで表現しているわけです。これ以上ないという人間の純粋な感覚を表現した。「これだけで私は意味があるものを作ったんですよ」と言っている。だから、科学が表明した要素に自分が還元できるわけがない、、、とたぶんそういうふうにいうんじゃないかなと思います。「芸術の意味というのは、そういうことじゃないんだよ」とマレーヴィチは言うんじゃないかなと思います。
セザンヌのほうも絵の描き方が視覚的要素に還元できるかもしれないと思っても、セザンヌの絵画全体の印象は、それだけでは無いですよね、もっと別の意味、芸術としての固有の意味があると思います。
そういうことを考えていきますと、次のような問題が設定できると思います。自分のものの見方、考え方で作った芸術がこちらにあります(スライドの右にあるセザンヌのセントビクトワール山とマレーヴィチの赤い四角の絵画)。もう一つは脳科学によって明らかになってきた脳の機能というものがあります(左の脳の図)。主観的に捉えたもの(右の絵画)と客観的に捉えた科学(左の脳の図)と何の関係があるのかという問題がここで浮かび上がってくるわけです。もっと端的にいえば、マレーヴィチの絵画だと思わないで単純な赤だと思ってください。赤を見た時に確かにV4の赤いニューロンが活性化するんですけれども、我々が赤を見た時の主体的な感覚というものは、このニューロンの発火以上のもので、それとは全然意味が違うもので、これは血の色であり、夕日の色であり、という赤を見た時の我々の経験の質というものがあります。
これっていうのはどっから出てくるのか? V4が活性化したことと、これ(赤い色)が出てくるという、この関係がどうしてもわからないんですよ。今、このことが大問題になっていて、難しい問題・・・Hard Problem と言われているものです。一体これ(脳のV4)とこの(赤い色)の感じ、これってどういう関係にあるのか?確かに密接な関係があるらしい。V4が無くなったら、赤は認識できなくなるのですから。しかしV4が働いているからといって、何でこれ(赤い色)が出てくるのか?自分のこころの中にこういう感じが出てくるのか、全然わからないんです。
主観はどうやって生まれるかということについて、いろんな説があります。それについてごく簡単に申し上げます。
一元論と二元論と、2つあると思ってください。一元論というのは唯物論です。つまり意識とは脳の機能であると。脳が働けば、主観的なものが出てくるはずだという説です。科学が進歩して、いずれ脳の機能が十分に解明されれば、心の謎というのは解けるよというのがこの一元論の考え方です。
二元論というのは、いやそうじゃないと。たましいというものがあって、それが心の源泉であって、それが脳に宿っているにすぎない、という考え方です。さすがにたましいを持ち出すとそれ以上説明できなくなるので、現在これの主だった論者はいません。
科学の分野では一元論のアプローチのほうが盛んでして、今一番有力な説はこの統合情報理論というもので、ごく簡単にいいますと、意識は情報を生み出していて意識の情報は量として計算できるという理論です。だから、心を測定の対象にすることができるというモデルです。そういう意味でこれは期待されている理論です。
もうひとつ量子脳理論というのがあります。ロジャー・ペンローズという人がいってますが、量子というのは波であると同時に粒子であるという非常に小さい世界で通用する法則ですけれども、それと同じような原理が意識の中に働いているのだという摩訶不思議な考えです。僕はこれは魅力的に思うのですが、話始めると長くなりますので、このくらいにします。
中立説、中立二元論というのがあります。これは、やっぱり脳の機能と主観は別のものだという考えかたですが、これは主観と客観は共通の根源をもっている。それが何なのかまだわからないが、一元論の考え方では絶対にたどり着けないに違いない、というのが、この考え方です。では、じゃあ、脳の機能と主観の根源とは何かということはいまだに言い得ていないです。ここで主張しているのは、絶対に一元論のアプローチでは出来ませんよと言いたいんだと私は解釈しているんですけどね。
まだまだ色んな人が色んなこと言っているんですけれども、あまり大きな成果は無いです。いまだもって心は謎なんで諸説入り乱れているという状況ですね。
こういう中でも、芸術家は芸術をつくることができるんですよ。芸術家は主観的に物事をみて、物をつくるんですが、作品は客観的な物体として世の中に現れて、なぜか作品は出来ます。不思議なことに出来ちゃいます。ここに何かヒントはありはしないかと私は考えました。これは説とかそういうんじゃなくて、もしかしたら何かとっかかりがあるのかもしれない。・・・無いかもしれないですよ。今日はそれについて考えてみたいと思うんですよ。何の手がかりも得られないかもしれないですし、議論が発散してどうなるのかわかんないかもしれません。ただやってみる意味はあるんじゃないかと思いまして。
芸術家がこのような議論の中に入るということは今までは無かった。脳科学の分野では哲学者とか人工知能を作るような人たちはコラボレーションするんですけれども、芸術家は―最近少しそういう活動の中に入ってますが―、本格的にこの議論に参入したことはあまり無いです。そういう意味でも少しづつ始める草の根的な議論の一つになるかもしれないと期待しています。