文明の外部性と内部性
近代には2つの特徴がある。
一つは、人間中心である。神や死者のためではなく、今生きている人間自身の利益を第一に考える。これは人権や民主主義の元となった考え方である。
もう一つは徹底した効率化・合理化である。
この二つの原則に基づき、自然は収奪する対象として最大限利用されてきた。
石油や鉱山の採掘は、地球資源の収奪である。
水力発電は河からのエネルギーの収奪
森を開いてソーラーパネルを並べるのは、森からの収奪である。
テクノロジーとは、収奪の効率化であった。
効率化と収奪の原則が、人間自身に適用されると、労働の収奪になる。現在に至るブラック企業などの系譜である。
そのように収奪してきた結果、今や地球全体が気候変動などを起こしている。
この近代資本主義は、外部を求める文明形態である。
外部とは以下のようなことである。
時間的な外部
-過去(例:石油・石炭。太古に吸収された太陽エネルギー)
-未来(例:金を貸して利子を取ること、投資してリターンを得ること)
空間的な外部
(例:植民地からの労働収奪、資源採掘、低所得地域での低賃金による生産、二酸化炭素の大気放出、ゴミの地中や海洋への廃棄)
外部と接している文明
外側には見えない部分があり、そこからエネルギーを得て活動し、老廃物は外に廃棄される。
by 巳巳
もっとも成功した外部化産業は、石油化学産業だった。
油田の採掘とその利用である。
精製の温度を変えるだけで、ガソリンから重油までを分離し、プラスチック、衣料品、そして道路まであらゆるものを作る。
その生産は太古の植物によって吸収された太陽エネルギーであり、しかも廃棄物を無害化して廃棄するまでには、たいへんな手間とコストがかかるものだったのにそれを外部に追いやって不可視化してきた。
原油の採掘は、外国の原油の採掘場であり、プラスチック製品の生産現場は低所得地域の名もなき工場であり、先進国の消費者からは見えない。
石油化学産業は、二酸化炭素の排出や、使用済みのプラスチック廃棄物を外に放り出してきた。しかし外と考えていたのは実は有限だった大気中や海洋である。
外から与えられ、そして外に放り出して解決したと思っていたものは、実はとんでもない間違いで、閉じたシステムの大きな循環の内部だった。
近代の二つの特徴、効率化と人間中心の原理は、もともと、もっと大きなシステムの中のごく一部であったといわざるを得ない。
そしてSDGsは妥協点を探ろうとしている。
外部と思っていたが実は内部だった文明
by 巳巳
そしてこの文明の内側に、内部性をもった産業が生まれることがある。それは決まって生命にかかわることである。
この領域だけは、近代の原理は通用しない。
養蚕や再生医療は、そういったミニチュアのような文明の内部性モデルである。
蚕は人間が品種改変によって作った種で、自然界で暮らす能力がない。
餌を自分で探すことができない。足の力が弱く桑の木の葉にしがみつくこともできない。
成虫(カイコ蛾)は飛ぶこともできないし、口が無いので食べることもできない。
人間が世話しなければ生きられない種となってしまった。人間の活動の内部でしか生きられない。
そして養蚕は家の中で行われる、私的空間と密着しており生産現場が「外部」ではない。
再生医療は原料が患者の身体から採取され、最終的には患者自身のカラダに取り込まれるので、逃げようがなく内部的である。
そしてどちらも全てを人の手元おいて作業するので家内制手工業とも言える。
その効率に限界がある。
つまり、養蚕業も再生医療も、生産から廃棄物の処理まで、すでに内部化されているので、人間がその全ての世話をやかなくてはならなくなっているというわけである。
収奪という形態からは程遠い。
そして、養蚕の場面においては人間が蚕に尽くし仕えるという立場の逆転が起こる。
いわば次のような相関関係がある。
人間中心的~外部を必要とする~効率的
人間は従属的~内部化されている~非効率的
蚕は昆虫であり、人間と違う生き物であり感覚を共有できるはずもないのだが、養蚕家たち(そのほとんどが農家の女性たち)は蚕と感覚を共にするようになる。
つまり、蚕のように感じ、蚕のように想うのだ。
蚕と同じように感じようと努める
ここには自然 対 近代文明 という対立関係は当てはまらない。
文明の内部にできている内部的な産業
by 巳巳
もし、今後、宇宙空間に外部を見いだそうとしたら、どうであろうか?
資源採掘や、生産は全て宇宙で行なう。
天気に左右されない強烈な太陽光で発電し、
廃棄物は太陽という巨大な核融合焼却炉に送り込む。
しかしおそらく遠くない未来には、太陽に投入される膨大な廃棄物によって太陽の組成が変わり、太陽の変化が地球に大きな影響を与えるようになってしまうだろう。
外部を求める文明形態は、どの道、限界を迎えるのである。
この文明は必然的に外部を求めるのだが、たえず限界があることを知っておく必要がある。
近代は、人間が中心となり、外部からの徴収や外部への排除によって効率を維持する体系だ。
それは外部を不可視化するので、一面的であり、根本的な無知と勘違いを前提としている。
我々の文明は大きなものの内部にあるにもかかわらず、手間やコストがかかることは見えない外側に置き、不可視化している。
近代とは、そのような無知の上になりたってきた。
一方、養蚕は、文明の内部性の自覚である。
全てが自分に回帰することを理解している。
蚕そして繭の生産は、近代化できなかった。養蚕は、そのような我々の文明の根本的な間違いを、静かに示唆している。
了
繭
by 巳巳
文明の内部性と外部性
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