​養蚕の近代史

江戸時代の養蚕

江戸時代、各藩の振興によって養蚕が行われていた。

​農家にとっても藩にとっても貴重な収入源であった。

中之条においても江戸時代中期ころから各地で養蚕が行われるようになった。

中之条・大道地区の豪農であった富沢家は新田開発による米作の他、駄馬による運送業なと幅広く商いをしていたが、養蚕にも取り組むようになり、1790年(寛政2年)現在残る「旧富沢家住宅」が 建てられた。二階はほとんど全室が養蚕室となっていることから、養蚕への力の入れようが伺われる。

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旧富沢家住宅 

​二階はほとんど養蚕室である

(国指定重要文化財)中之条町

しかし当時は品種、品質、養蚕法ともに地域でばらばらであった。

また蚕の育て方の研究もされておらず、育て方は各藩、各農家の自己流で、養蚕は出来・不出来の差が大きく、蚕は「運の虫」と言われるほど当たりはずれが大きいものだった。

開国

1850-60年、欧州で蚕の病である微粒子病が大流行した。生糸の原材料が不足し、日本の生糸の需要が高まった。

1859(安政6年)横浜港等が外国に開かれ、日本は海外からの本格的な貿易を開始した。

開国と欧州での生糸不足が重なったことで、輸出品としての生糸が注目を浴び、日本の生糸産業は躍進を始めた。

養育法の研究と普及

生糸の需要が急速に高まったにも関わらず、相変わらず養蚕は安定せず、養蚕農家によって出来不出来がまちまちだった。

そんな中、1863(文久3年)田島弥平が換気を重視し自然に近い状態で飼育する「清涼育」を確立(群馬県伊勢崎市)。また1873(明治6年)高山長五郎は、換気とともに火器によって蚕室を温めることも取り入れた「清温育」を考案し、養蚕法を教える学校「養蚕改良高山組」(後の「高山社」〈たかやましゃ〉)を設立し、養蚕技術の普及に努めた。

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高山社跡 群馬県藤岡市
(世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」) 

田島弥平や高山社の養蚕方法は、「蚕の習性に従う」ことである。

一言でいえばマニュアル化や効率化を目指さず、ひたすら蚕にとっての快適さを最優先するやり方である。彼らの養蚕技術を伝える書物には、蚕のことを「蚕児(さんじ)」と書いている。人の子を育てるような細心の注意と心使いが必要との心得である。

明治にはすでに寒暖計があったが、それを過信することなく、蚕児の様子を細かく観察して餌の桑の葉や、換気、火器による温めなどを行う技法が事細かに書かれている。​

すべては人間にとっての効率化ではなく、あくまでも蚕が主で人間が従属的な関係であった。

​手間を惜しまず蚕に尽くすこと。これが最も重要なことであった。

人間中心・効率の追求である近代の原理とは真逆である。

常に蚕の様子をみてきめ細かい世話をしなければならないため、養蚕は離れではなく母屋の中、つまり生活空間の中で行われた。

​家ごとに間取り、部屋の大きさ、日当たり等の条件が異なるため、蚕をよく観察し、蚕の成長段階・季節・天候などの不確定要因を考慮して通風・給餌・温暖などをその都度決めていくのである。

このような養蚕作業の実践者は、農家の女性たちであった。

「お蚕(こ)さま」、「蚕児」、などと呼ばれ、養蚕は育児と同様におこなわれ、女性たちは昆虫である蚕と心を通わせるような感覚を醸成していった。

蚕の卵からの孵化促進のために蚕紙(卵の貼り付けられた紙)を体で温めるということも広く行われていた。

そして一方、蚕の病気や糸を吐かないなどの事態は養蚕に従事する女性たちにこの上ない不安を植え付けた。​このような実践と心情が、各地に残る養蚕信仰につながっていった。

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蚕を世話する

by 巳巳

​中之条における養蚕の普及
1882(明治15年)頃より 中之条にも養蚕農家が増え始めるが、飼育法が確立せず霜害などの被害をたびたびうけてきた。

田中甚平は、農商務省の命でイタリア・フランスに蚕業視察(1888年 明治21年)した後、1889年(明治22年)中之条町伊勢町に養蚕学校(吾妻養蚕試験所)を設立し普及に努めた。​

田中甚平の中之条における講演記録が国会図書館のデジタルアーカイブに残っている。

中之条懇話会「養蚕ノ話」1894(明治27年)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/841505

ここでも火器使用時に炭酸気(一酸化炭素)の排除のために換気に十分注意を払うことや、人肌で催青(孵化)を促す手法について紹介されている。

一方、赤岩集落(中之条町六合(くに)赤岩)では、江戸時代後期から養蚕が行われ、明治後期には 高山社の指導をうけ昭和戦後まで盛んに行われた。

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山々に囲まれた赤岩集落

(重要伝統的建造物群保存地区)

1901年(明治34年)には、中之条の養蚕農家は780戸となり、最盛期となる。

近代化できなかった養蚕

   -カネボウの失敗 -

 

明治に入ると国を挙げて蚕の品質向上、生産効率化の努力が始まった。

 

課題の一つは品種の統一である。かつては品種改良に規制はなく、江戸末期には日本には全国に900種類ほど蚕の品種があった。しかし主な輸出国のアメリカから品質の均一性を求められ、国主導で品種統一が行われた。明治末期から蚕種(蚕の卵)の業者は国の認可制となり、最終的には数品種に統一された。

もうひとつは蚕から糸を生産する製糸業の効率化である。1872年(明治4年)の富岡製糸場建設以来、製糸工場の発達によって生産性の向上が行われてきた。明治期の製糸工程は自宅での座繰製糸(一人で手回しの糸車を回して繭から糸をつむぐ作業)が圧倒的多数であったが、大正、昭和と徐々に大規模工場が存在感をあらわしていった。

​こうして養蚕の前工程と後工程は標準化・効率化に向かったものの、肝心の養蚕の作業だけは最後まで各農家でおこなわれる家内制手工業を脱することはなかった。

この養蚕の非効率性を解消すべく、1929年(昭和4年)鐘淵紡績株式会社(のちのカネボウ)は、鹿児島県の大隅半島に大規模な養蚕プランテーションを建設し、繭を大量生産する計画を実行した。しかしそれは大失敗に終わった。

失敗の原因の主なものは、工程が「人間の作業効率化」にしたがって組まれていたためである。蚕のためにきめ細かな配慮に行き届いた育て方をせず、労働者は単純作業として従事し、収穫は計画の半分にも満たなかったという。

結局、現在に至るまで養蚕は各農家の家内にて行われる作業から脱することはなく、近代資本主義の要求する効率化に従わせることは最後まで出来なかった。

​そして、この養蚕の非効率性、非近代性により、コストが掛かり過ぎるこそが、生糸産業が衰退した最大の原因であった。

​そして現代、これと同じような事態がある領域で起こっている。

それは「再生医療」の分野である。

養蚕の「非近代」史