​Whatever we are, anyway, we are different than that.

Jan 23-28  2017

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​われわれがなんであれ、いずれにせよ、とくかくそれとは違うものなのだ

KEK1
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KEK1, KEK2
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そもそもこうではなかったはずだ-そんな直観が私にはある。

世界は広く、物事は深い。それなのになぜ私の認識は、針の先ほどの小さな範囲に留まっているのだろうか? 注意深く世の中を見渡し、洞察を深め、心を中立に保ち、想像力を高めれば世界が内包している秘密が多少わかってくるようだが、私はそもそもの前提に疑問がある。

私の認識が、この肉体に閉じ込められているのはなぜなのか? 私はなぜ今見ているようにしか物事を見ることができないのか? 

失われた超越的認識を求めて、私はさまよう。

 

国立科学博物館に、高エネルギー加速器研究機構(KEK)で使われた電子と陽電子を衝突させる実験装置の一部が展示されている。この装置によって2001年に物質と反物質の寿命に差があることがわかり「CP対称性の破れ」が証明された。(この発見を理論的に予想した南部陽一郎、小林誠、益川敏英の三氏に2008年にノーベル物理学賞が授与された。)

「CP対称性の破れ」は宇宙の存在にとって重要な原理である。宇宙創成時、反物質より物質のほうがわずかに多く、すなわち対称的でなかったために、結果的に物質だけが残り我々の住む宇宙が出来た。

このことは理屈としては理解できるが、人間の認識能力を超えている。

 

私は粒子を加速する電磁装置や、衝突した粒子を計測するセンサー群を見て、これらは「言語」として捉えることができると思った。

言語は意味を伝達する手段としてだけではなく、それ自体を生な実体として表出させ独自の空間をつくることができる。実体としての言語は、矛盾の成立する場をつくることができる。いわば言語空間においては「丸い四角」という論理的に存在しえないものも言葉として成立する。容易に実施できるものの、具体的な在りようを思い描くことはできず、これも人間の認識能力を超えている。

 

「CP対称性の破れ」は存在/不在の条件を示す重要な原理だが、このことが言語との関係で論じられたことはおそらく無い。

しかし言語によって不在の空間を示すことと、実験装置を使ってこの世の成立条件を明らかにすることは、良く似ているのではないか?いや、或る意味で全く同じことなのではないか?共通の構造を見出すことによって超越的な認識への手がかりにならないだろうか?

 

ある時は言語として、或る時は装置として表現されるそれらの要素は、抽象的要素を具現化したものであるから、何も特定の装置や言語である必要はない。それらは任意の何かに、日常我々の周りにあるものに変換可能であろう。それらを組み合わせて、一編の現代詩のようなもの、一群の実験装置のようなものをつくることも可能だろう。かくしてこの会場に在るものは姿を現した。

 

だが注意しよう。CP対称性は「破れ」ている。我々の宇宙は「破れ」によって生じたものであり現在も時間という破壊者によって壊されつつある。

つじつまのあったものは壊れ、物と名の間のわずかなスキマに広大な空間が口を開けている。私と私の間に深い谷があり、空間は脱臼し、つくる主体とつくられる客体の関係は壊れている。

 

確かに我々の住む世界は調和に満ちた美しいものだ。しかし膨大な破壊がその底流にある。我々の住む世界の生成とは、壊れと修復を繰り返して辛うじて成り立っている。そして長い時間の果てには滅びて無くなってしまうのである。人間はそのようなものに耐えられるように出来ていない。

だがそこに、世界を見通す超越的な認識の手がかりがあるような気がする。

 

田島鉄也